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前章 Chapter3: 心理的迷宮 (Black Box Analysis)
腕時計やアクセサリー類に混ざって無造作に置かれている黒く鈍い光を放つチタンの指輪は、あの日、カフェのテーブル越しに彼が差し出したものだった。私は、自分の右手の親指を無意識にさすっていた。かつてそこに、彼の「お古」であるそのスマートリングがおさまっていた感触を思い出しているのだ。
以前、彼に睡眠の質が悪いせいか、疲れが取れないとこぼしたことがある。
すると後日、「新しいのを買ったから、これ、君にあげるよ。睡眠の質が計測できるよ」と彼が普段から右手の薬指につけていたそのリングをカフェのテーブルの上に置いた。
彼は慣れた手つきで自分のスマートフォンを操作した。「アカウントは完全にリセットしたから、今から君のスマホに紐付けよう」と付け加える。私は言われるがままに専用アプリをダウンロードした。彼は私の隣に座り直し、設定を手伝ってくれる。画面上でくるくると回る「接続中」のアイコン。
「僕には薬指がちょうど良かったけど、君には少し大きいかな」彼は私の手を取り、そのリングを私の親指にはめた。少し重厚すぎるチタンのリングが、私の親指を締め付ける。 「あ、ぴったりかも」 無邪気に笑う私を見て、彼は満足そうに頷いていた。
少し表面に傷がついたスマートリング──今まで彼の指にはめられていた間についたであろうその傷を、私は愛しく思った。そして、彼が私の睡眠の悩みについて覚えていてくれたことが嬉しくて、意外と彼は私に興味を持ってくれているのかもしれないと少し期待した。しかし、リングをもらってからも特に進展はなく、相変わらずお茶を飲みながらお喋りをするだけの関係が続いたのだが。
そのリングはしばらくの間つけていたのだが、24時間つけ続けるにはどうにも重厚すぎてかさばるのと、医者に相談して睡眠導入剤を処方してもらってから、睡眠の質が改善したので、気がつくとつけなくなっていた。
「アカウントは完全にリセットしたから」──今更その言葉の胡散臭さに気づいた。彼はAIリサーチャーだ。アカウントをリセットしたと見せかけて、裏で自分のアカウントにデータを同期し続けるなんて造作もないことだろう。スマートリングで取得できるデータは、心拍数、体温、睡眠ステージなどの生体データのようだが、それもOpenClaw経由でAIに学習されていた?
でもそのデータを、あのアバターにどう活用していたのか?それだけで、あの私のパーツで構成されたアバターを作成できるのだろうか?
ふと、あの日、彼がリングを私の親指にはめてくれた時の光景が、高解像度で蘇ってくる。彼は私の手元をじっと見つめていた。その時、彼がかけていた分厚い黒縁の眼鏡を思い出す。
「最近のスマートグラスの性能は、飛躍的に向上しているんだ。今度Metaが、HUD (ヘッドアップディスプレイ)も搭載されていてAIと連携もできるものを出すんだけど……」
以前、彼がそう語っていたのを思い出した。その時は「へー、そうなんだ」と、いつものTech Bro(技術屋)の知識披露として受け流していた。でも、もしあの時、彼がかけていたのがただの度付き眼鏡ではなく、スマートグラスだったとしたら?

