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前章 Chapter 5: スマートグラス (Silent Capture)
好奇心と戸惑いの混ざった複雑な心境のまま、日々の生活や仕事をこなしていた。彼と連絡が取れなくなって、もう2ヶ月以上経つ。
VCコミュニティに併設されているカフェテリアでコーヒーを飲みながら仕事をしていたら、ふと仲の良い先輩に声をかけられた。私が運営に加わるよりずっと前からこのコミュニティに所属している、若くして大学発のAI系ベンチャー企業を立ち上げた日本人AIリサーチャーだ。順調に成果を出している、見た目も爽やかで人柄も穏やかな、非の打ち所がない人物。昔からなぜか私のことを気にかけてくれ、私のくだらない与太話にも笑いながら付き合ってくれる貴重な存在で、仕事関係者の中で一番信頼している人でもある。私が主催するイベントにもスピーカーとしてよく登壇してくれるので、一緒に仕事をする機会も多かった。
最近の出来事などについて談笑しているうちに、先輩の人差し指に、例のスマートリングがはめられていることに気づいた。ふと、この人にならあのことを話してもいいのではないか、という考えが頭をよぎった。
「ちょっと聞いてもいいですか?それってスマートリングですよね」
「そうだよ。君も一時期つけてなかった?親指につける人って、あまり見たことがないから印象に残ってる」
「……あれ、実は友人のお古なんです。私、それで生体データを取られているかもしれなくて……」
「ええ!?」
突然の奇想天外な告白に驚愕する先輩に、ことの顛末の概要を説明した。デート(?)をしていた相手とのWhatsAppの画面に突然OpenClawのエラーメッセージが出たこと。相手を問い詰めたら、テキストデータをOpenClawでAIに連携させて学習させ、それで自分の3Dアバターを作成していたことを告白されたこと。
「これが、送られてきたアバターの画面キャプチャなんですけど……テキストデータだけでは作れないと思うので、他にもデータを取られていると思うんです。あのスマートリングもその人のお古なんで、何かしらのデータを取られてたんじゃないかって。あとは、写真を撮られた覚えはないんですけど、その人、眼鏡をかけてるんです。黒縁の分厚めの……」
「……スマートグラス」
先輩は私の無防備さに呆れているようだった。
「とにかく、そのスマートリングは今は外してもうつけてないんだよね?そもそも人のデータを勝手に取って、AI学習させるなんて犯罪だよ……訴えた方がいいんじゃない?」
私は言い淀みながら答えた。
「でも……訴えるとしても、この画像だけではなんとも言えなくて。あとは、技術的にもどうやったのか知りたいという好奇心もあって。3Dアバターなら動くはずですよね。これってなんのソフトだと思います?」
先輩は絶句し、さらに呆れた顔をして、画面をピンチアウトして、アバターの鎖骨のあたりを凝視した。数秒の沈黙の後、ふと笑い、少しだけ気まずそうにこちらを見た。
「……あー、なるほど。これ、VaMだね」
「ヴァ……なんですか?」
「Virt-a-Mate。Unityをベースにした、世界で最も物理演算が変態的に凄い『大人向け』のシミュレーター。この鎖骨から肩にかけての肌の透過光、それからこの服の生地が皮膚に食い込んでる感じ。これはモデリングじゃなくて、リアルタイムの物理演算でしか出せない。……これ、普通の3D制作の文脈じゃ出てこないツールだよ。彼はかなりの『コアなユーザー』だね」
その言葉を聞いた途端、私の背筋が寒くなった。
「大人向けって、ポルノってことですか?でも服着てるし……」
先輩は、先ほどまでの呆れ顔とはうって変わり、いまだかつてないほど興奮した表情を浮かべていた。
「この画面キャプチャ以外にも他に色々なシーンがあるに決まってるだろ。断言するけど、このドール……ああVaMの女の子のことをドールって言ったりするんだけど、このドールは絶対に裸にされてるよ。そのためのツールなんだから。AIに学習させていたデータを、このドールに流し込んで動かしてたんじゃない?」
「え……」
「学習させたテキストデータで君が言いそうな事をAIに生成させてこのドールにしゃべらせる。スマートグラスを使ってたんだとしたら、映像も撮れるから、声のクローンも作れるよね」
「じゃあ、スマートリングは……?」
「そうだなぁ、睡眠ステージだけじゃなく、心拍数とか体温もとれるから……例えば君が『興奮するタイミング』とかもログとして取れてたりするかもね」
今度は私が絶句した。先輩の瞳が、見たこともない色でギラギラと輝いていたからだ。
「いずれにせよ、その人、君専用の学習モデルをわざわざ組んで、デジタルツイン作ったって事でしょ。それってテック業界の最新トレンドだよ。それだけ彼は君に心酔してるって事。かなり、State-of-the-Art(最高に名誉なこと)だよ!!」
先輩の顔は今や、技術的関心と剥き出しの劣情が入り混じって歪んでいた。そうだ、この人もあの彼と同じAIリサーチャーなんだ……。そして何より「男」なのだ。私は先輩の感情の変遷ぶりに多少のショックを受けた。と同時に、やはりこの人に相談してよかったと実感した。自分が何をされたのか、物語の輪郭が見えてきたからだ。
自分の中に、説明不能な好奇心がむくむくと湧いてくるのを、私は静かに感じていた。

